卒論研究の手順―はじめに


はじめに


 大学生はどうして卒論を書かないと卒業出来ないのか。
 そんなものは要らないのではないかと言う人もいるし、国により大学により卒論を課さない場合もあって、学問の分野によっては他の形式、たとえば卒業試験、制作、演奏のような方法もありうるだろう。しかし少なくとも、私が専門としている日本の古典文学をはじめとする人文科学系の諸分野では必要だろう、と私は考えている。なぜか。
 小学校から高校までの授業、或いは勉強の仕方は、誰かは答えを知っている問題を解くために、必要な知識や技術を学び、身に付けることが中心になっている。生徒は知らないが先生は知っていることを、生徒達は習うのである。一人一人の人間、市民として生きて行くために、長い歴史の中で蓄積されて来た、誰かが教えてくれる知識や技術を素直に吸収し身に付けることはとても大事なことだが、実際に社会に出てみれば、或いは実は生徒として生活している学校の中でも、先生が教えてくれる知識や技術だけでは解決出来ない問題が沢山ある。しかしまだ高校の生徒ぐらいまでの間は、法的に子どもと分類されているので社会的な責任はなく、困ったら親や先生や、その他の大人達に助けを求めることが出来る。責任は大人にあるのだから。
 が、大人になったらそうは行かない。社会人になって何か責任ある仕事を任せられたとき、助けを求められる上司とか先輩とかはいても、最後には自分が責任を持って仕事を完成させなくてはならない。たとえば教員になったら、指導を担当する生徒達は、みんなその教員に助けを求める。自分にはわからないから先輩に聞いてみるとか校長先生に聞いてみるとか、そういう姿勢もときには必要だが、最終的には自分が責任を持って問題を解決しなくてはならない。それが出来なければ教員失格ということになる。民間の会社ならば、あいつには仕事を任せられないということになり、昇進や昇給は出来ない。場合によると肩たたきで退職を迫られるかも知れない。そうならないためには、自分で問題を解決出来る人にならなくてはいけない。
 法的には中卒とか高卒でも就職は出来るので、実はこうした自力で問題を解決出来る能力は、中学でも高校でも身に付けられるようにしなければならないのだが、現実に多くの中学では高校受験、高校では大学受験の指導しかしておらず、社会人になるための訓練は大学に任されているのが実状である。そこで大学では、高校までの勉強の仕方の延長として、先生の話を聞いて理解したり知識を身に付けたりする方式の授業と、自力で問題解決しなければ授業そのものが成立しないタイプの授業を組み合わせ、徐々に前者から後者にシフトして行くようにカリキュラムを作っている。語学の授業は大体前者であり、教養系の科目、専門でも講義系の科目はそういうものが多いが、アカデミックスキル、地域プロジェクト、ゼミナールといった演習、実習系の科目は、自力で問題解決出来る能力を身に付けられることを目指す授業であり、卒論はそのための最終的な能力を試す課題なのである。自ら問題を発見しその解決方法を探り、実際にやってみて、自分が考えた方法が有効か否かを確かめ、その成果を文章によって表現するのが卒論である。その成果が一定の水準に達しているか否かを判定することによって、大学はその学生を社会に送り出していいかどうかを判断するのである。
 さて、自ら問題を発見し、自分でそれを解決するのが卒論の方法ならば、具体的にどうやって問題を発見したり解決方法を探ったりすればいいか、ということも自分で考えたり本を読んだり情報収集したりして編み出さなければいけないので、誰かが教えられることではないはずなのだが、小学校から高校まで、長らく誰かが答えを知っている問題を解く方法しか学んでこなかった人達が、突然あとは自分でやれと放り出されたら戸惑うだろう。実は私の学生時代は放り出されて全部自分でやらなければいけなかったのだが、折角長い歴史の中で繰り返されて来た方法を、一から自分だけで探すのは余りに手間がかかる。そこで以下は、古典文学の研究を専門とする私が、古典文学をテーマに卒論を書くにはどういう手順が必要かを考えてまとめてみたものである。これまでは学校教育教員養成課程や人間地域科学課程の古典ゼミにおいて、年に一度学生に配布し説明して来たのだが、再編によってあれこれ制度が変わったので、新設の国際地域学科地域協働専攻国際協働グループで古典ゼミを選択した学生向けに修正した。内容は古典文学の研究だが、基本的に研究の方法はどんな学問も共通していると思うから、他の分野で卒論を書こうとしている人達にも参考になるのではないか、というか、そうなることを目指して書いたので、役に立てていただければ嬉しい。