2004年(平成16年)


日本文学のキーワード(その五)「狂言綺語」
れぎおん44号2004年1月1日p2-7.
 前回論じた「言霊」思想に反するかのような、言葉を操ることを罪と見なす「狂言綺語」について論じた。「狂言綺語」観が白居易から始まって日本の平安時代、勧学会の人々に受け入れられたこと、それは文章経国思想の破綻によって生まれた文学状況だったことを説明。次いで院政期以後比較的早くこの思想は克服され、室町時代の義経記においては、むしろ推奨されるべき教養と目されたこと。しかし近世・近代において、むしろ白楽天時代が蒸し返されたかのような使い方も登場し、現代にも全く克服されたわけではないが、それがなぜかは更に追

日本文学のキーワード(その六)「えん(艶)」
れぎおん45号2004年4月1日p2-7.
 定家が貫行を乗り越えるために選んだキーワードが余情妖艶であり、その中の艶について考察。この語は元々漢語であり、奈良時代には中国語の意味とほぼ同じ意味で使われていた。和文においては源氏物語・枕草子あたりから使われ始め、特に源氏物語において多彩な意味で使われ、後世の用例はほぼ源氏物語の用法の範囲に収まる。が、中で心敬の使い方はかなり特異。「氷ばかり艶なるはなし」(ひとり言)といった発言が注目されているが、その用法が余りに特異なので、後世において正当に理解されること、受け継がれることはなかったろう、と

日本文学のキーワード(その七)「花」
れぎおん46号2004年7月1日p2-7.
 先行文献の多くは、日本文学における花が問題になるのは歌論の花実論と世阿弥の能楽論であると指摘するが、他にも問題はあるだろう。たとえば花が徐々に桜に限定されて行く過程、連歌・俳諧の花の座。そこで従来のテーマとその二つのテーマを合わせ、四つの問題を考えた。花は、勅撰集の歴史の中では徐々に桜に統一される傾向はあったようだが、最後まで統一されてはいなかった。歌論の花実論は花よりも実に軍配を上げる傾向であり、それは従来も論じられていたが、その花とは梅の花らしい。世阿弥の花は万木千草の花だが、実を考慮せず、

日本文学のキーワード(その八)最終回「制詞」(「せいし」或いは「せいのことば」)
れぎおん47号2004年10月1日p2-7.
 前回引用した小西甚一『能楽論研究』は、世阿弥の花の理論に影響を与えた歌論を、二条派よりも京極・冷泉派の歌論であった可能性が高いと指摘した。それによれば三派の歌論は二条と京極・冷泉が対立していることになるが、「制詞」に関しては、京極派が独自で二条・冷泉は対立していない。制詞を否定する京極派は近世までは埋もれていたが、明治以降自由を求める機運の中で高く評価され、逆に制詞を守る二条派は評価が落ちた。しかし現代における著作権の問題は、むしろ制詞を重んずる考え方である。